へぇ~♪そうなんだ~♪

映画<ネタバレ・あらすじ>本

「ハンズ・オブ・ストーン」<ネタバレ・あらすじ>パナマ出身の伝説的ボクサー・石の拳ロベルト・デュランの半生!!

 

ハンズ・オブ・ストーン [DVD]

 

監督=ジョナサン・ヤクボウィッツ

 

ロベルト・デュラン(エドガー・ラミレス)

レイ・アーセル(ロバード・デ・ニーロ)

シュガー・レイ・レナード(アッシャー・レイモンド四世)

チャフラン(オスカル・ハナエダ)

フェリシダード・イグレシアス(アナ・デ・アリマス)

カルロス・エレタ(ルーベン・ブラデス)

 

< ネタバレ あらすじ >

 ハンズ・オブ・ストーン

 

1964年1月9日、アメリカの支配下であるパナマの運河地帯では学生運動が起こりアメリカ軍と衝突していました。

スラム街育ちの少年ロベルト・デュランはアメリカを嫌う理由のなかに母親を捨てた父親がアメリカ人だったという事もありました。

お金がなく学校にも行かれないデュランにとって一番の師はボヘミアンのチャフランでした。

ある日、ストリートボクシングでお小遣いを稼いでいたデュランは逮捕されてしまうがボクシングトレーナーのプロモがもう悪さをしない条件でトレーナーとなってくれました。

 

16歳でプロデビューを果たし連戦連勝を続けると大富豪のカルロス・エレタが「世界王者になりたければ力になる」と訪ねてきます。

1971年9月13日。対フエルタス戦を66秒でKO勝利し戦績は25戦中22戦KO負0。

18人の世界王者を育てた史上最高のトレーナーであるレイ・アーセルはデュランを世界王者にしてほしいとデュランのマネージャー、カルロス・エレタから頼まれます。

17年前、全米でボクシングの興行をしていたアーセルはテレビ放送に手を出すとNYマフィアの反感を買って襲撃されボクシングで金は稼がないと約束していました。

また命を狙われると妻から反対されたアーセルだが残りの人生好きな事をしたいと強く望み無償で引き受けました。

あらゆるものを憎んでがむしゃらに戦い続けて来たデュランにアーセルは「戦術」を学ばせます。デュランはお嬢様のフェリシダードに一目惚れして「住む世界が違う」とそっぽ向かれていたがアーセルとの出会いを恋の駆け引きに活かし恋人関係となりました。

 

タイトルマッチが決定するとアーセルの前にNYマフィアが姿を表します。

無償でやってるから約束は破っていないと説明し予想では王者のブキャナンが有利だが間違いなくデュランが勝つから全額掛ければ儲かるぞと言ってやります。

負けたら撃ち殺せばいいと言うと納得してマフィアはその場を去って行きました。

1972年6月26日、デュランは28戦無敗でWBA世界ライト級王者ブキャナンに挑戦し積極的に攻撃し1ラウンドでダウンを奪いました。

アーセルは相手を疲れさせるためにフェイントやジャブなしではやられてしまうと忠告し戦略から絶対に外れてはならないと念を押します。

そして13ラウンドのボディブローで相手を静め見事にライト級王座を獲得しました。

  

ノンタイトル戦でエステバンに初黒星をつけられるが、その後10連続KOを含む11度の防衛を達成した頃には「石の拳」と恐れられ、フェリシダードとの間に5人?の子供を授かっていました。

また20年先の1999年に運河地帯をパナマに返還する署名をアメリカはしました。

20年先のことでアメリカ人は信用できないと訴えるフェリシダードは、パナマ国民を喜ばせたいならアメリカで人気があり注目されているシュガー・レイ・レナードを倒すべきだと言いました。

レナードはスピードがあり長所を活かしながら距離を取りポイントを稼ぐボクサーでした。デュランはレストランで出くわしたレナードの奥さんを侮辱し彼を怒らせます。

アーセルは本物の戦士となってパナマの恨みを返したいなら何も言わないがおまえがやったことは最低な行為だと責めました。

 

スポンサーリンク
 

 

1980年6月20日、WBC世界ウェルター級王者レナードに挑戦しました。

(映画にはないが1978年エステバンと統一戦を行ない12度の防衛を達成したあとベルトを返上し8試合のノンタイトル戦をしてレナード戦に挑んだ)

アーセルから距離をとられても追うなと指示されるが、侮辱された事に怒っていたせいかいつもの冷静なレナードではありませんでした。

フルラウンドを戦いデュランは2階級制覇を達成するとパナマは大熱狂し後に廃止されてしまうが「デュランの日」として祝日に制定されました。

会見でデュランは「レナードは今となれば友達だ」と発言し、それを見ていたレナードは試合を有利に進めるために侮辱してきたのだと気付きます。

レナードはすぐにリマッチをすると電話をかけました。

 

プロモーターのドン・キングは史上最高額のファイトマネーでデュランのマネージャー、エレタに話を持ち込みます。

1980年7月30日ラスベガスで楽しんでいたデュランに父親が訪ねてきます。母親は14歳で金もなく出産すると軍人だった父親は転属命令に逆らえずいなくなりました。ずっと憎んでいた父親は想像していたようなアメリカ人ではなくメキシコ系でした。謝罪されデュランは怒る事もできませんでした。

また酷い言葉を浴びせいなくなってしまったチャフランが事故に巻き込まれ命を落としてしまいます。

3ヶ月で20キロ近く減量せねばならずアーセルは「デュランは性格的に自由にやらせるべきで強制してはいけない」と勝手に再戦を決めたエレタに怒ります。3ヶ月で20キロ近く減量せねばならずデュランは怒ってエレタの高級車を破壊しました。

ずっと飢えに苦しんできたデュランにとって減量は過酷なものでありアーセルはドン・キングに掛け合うがテレビ局も会場も手配済みであり引き下がらないなら契約違反で訴えると言われてしまいます。

デュランは軽量までに間に合わせるが1980年11月25日の再戦ではレナードは挑発にはのらずスピードを活かしたジャブを繰り出しヒット・アンド・アウェイで攻めてきました。

イライラしたデュランは8ラウンドに「ノー・マス(もうたくさんだ)」と試合放棄しボクシング引退を宣言しました。

金を払って騙されたと非難を浴びるがアーセルは気持ちで負けたのはトレーナーである自分の責任だと述べる一方デュランの生い立ちを知っているため出場停止処分に賛同する者は恥じるべきだと訴えました。

 

1981年7月31日、

国民から負け犬だと非難され続けデュランは酒に溺れます。

将軍の葬儀の帰りには子供からノー・マス野郎と馬鹿にされてしまいます。

デュランは王者になれなくても戦わなければならないと思い復帰を誓うと妻から抱き締められます。

誰よりも長く一緒にいるプロモがトレーナーとなりアーセルが試合の手配をする事になります。しかしプロモは悪さしたら刑務所に連れ戻すと少年デュランに言っていたため実行します。

デュランが収監されているあいだアーセルは試合復帰に向けて行動するがノー・マス事件は記憶に新しく難しい状況でした。

 

1983年6月16日、32歳の誕生日、デュランはジュニアミドル級王者デビー・ムーアに挑戦します。

(この前にタイトル戦、ノンタイトル戦の2試合をしていたが敗れている。)

この試合の解説はレナードが務めデュランは不利と見られていたが見事TKO勝ちし史上7人目の3階級制覇を成し遂げました。

観客席で見守っていたアーセルやレナードはリングに上がって祝福しデュランは完全復活をアピールしました。

 

プロモはデュランを生涯支え続け2012年81歳で亡くなりました。

エレタはデュランと決別後ボクシング界から身を引き2013年95歳で亡くなりました。

レナードはファイトマネーで史上初の1億ドル超えで5階級制覇を達成したが全盛期に彼に勝ったのはデュランだけでした。

アーセルはトレーナーとして初のボクシング殿堂入りを果たし70年で20人の世界王者を育てたが1994年95歳で亡くなりました。

 

デュランは史上最強のライト級ボクサーと評され同級で始めてミドル級も制覇、4階級制覇を成し遂げました。

レナード戦でノー・マスとは言っていないと主張。

パナマの地域社会に貢献し2009年に市内の競技場がロベルト・デュラン・アリーナと改名されました。

現在もパナマに在住しフェリシダートとは結婚45年目を迎えていました。

 

blog.netabare-arasuji.net