「レッドクロス 女たちの赤紙」ネタバレあらすじ/女性でも国の役に立てる喜びと赤十字の博愛精神

 

作品情報とキャストの紹介

平成27年度文化庁芸術祭参加作品/TBSテレビ60周年特別企画「レッドクロス 女たちの赤紙」。

第二次世界大戦中。子供の頃からの夢だった赤十字の看護婦となった希代だったが戦場の現実にショックを受け現実主義の軍医と対立して帰国する。

やがて満州の開拓村に移り結婚して子供を授かると再び看護婦となる。しかしソ連の侵攻を受けると軍に招集されていた夫が片手と両脚を失った状態で運ばれ、母親に捨てられたと勘違いした息子は中国の軍隊に入ってしまう。

満州事変から朝鮮までの希代の人生、離ればなれになった息子と再会する事はできるのか。

※涙なしには見れない作品、主題歌・Yae「名も知らぬ花のように」は耳にするだけで涙が出てきます。是非、聴いてみてください。

 

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天野希代(松嶋菜々子)中川亘(西島秀俊)天野大祐(山崎努)中川博人(工藤阿須加=高村佳偉=中村瑠輝人)中川光(赤井英和)中川大地(市村涼風)馬渕ハル(高梨臨)溝口少佐(吉沢悠)大竹英世(笑福亭鶴瓶)

 

 

ネタバレあらすじ/レッドクロス女たちの赤紙

 

1923年、佐賀県 森屋町病院で母親の天野絹江はもう長く生きられないと祖父である天野大祐から伝えられる。

「じっちゃんが死んだら、おまえは1人でやっていかなければならない、男より強くなれ」

幼い天野希代は覚悟を決めるが必死で看病した看護婦のおかげで絹江は助かった。

この看護婦との出会いにより自分もいつか看護婦になって命を助けたいと思い勉強に励むようになる。

〜8年後・1931年

赤十字に入り救護看護婦として戦地に行き1つでも多くの命を助けたい。その想いを叶えるため看護婦養成所の門をたたいたが軍隊並の厳しさがありました。

だが女性でも国の役に立てる喜びと敵味方関係なく命を助ける赤十字の博愛精神への誇りが支えてくれました。

女性に戦時召集狀が届けられたのは後にも先にも救護看護師だけでした。赤紙が届き、婦長が戦地で敵の兵隊を救護した話を希代は思い出していました。

 

実現しない博愛精神

見送りに来てくれた母親と祖父に「人の命を差別するなと教えてきたが、戦場ではまともな考えは通用しない」と言われ希代は戸惑います。

広島で列車を降ろされ船に乗るとソビエト連邦の国境に近い佳木斯駅(チャムス駅)に到着します。

満州各地で匪賊(土地を奪われた中国人農民)による反抗が起こっており希代たちも陸軍病院に行く途中に危険な目に遭います。

佳木斯陸軍病院で希代たちを待っていたのは負傷兵の山でした。

蔵原基介中佐が着任すると徐々に祖父である大祐の言葉が現実味を帯びていき、負傷している兵を戦場に戻したり直属の部下を優先しろと命じられたり納得出来ない事ばかりでした。

軍医である大竹英世に医師としての使命を放棄するのか問うが「上官の言う事が最優先、生きて帰りたかったら従うべきだ」だと言われます。

後回しにされた負傷兵が亡くなり、なんのために赤十字に入ったのか怒りを大竹にぶつけます。

 

満州開拓団民の中川亘が怪我をした義兄の光と匪賊である孫を連れてきます。大竹は敵なんか助けないと言うが希代は日本人とゆう事にすれば良いと提案します。

やがて孫が退院し、赤十字の看護婦として誇りを持って仕事ができたと希代たちは喜ぶが銀行を襲撃した中に孫がいた事で匪賊を治療した事が蔵原にばれてしまい孫は公開処刑されてしまいます。

また中川は非国民扱いされ蔵原に殴られるが希代は庇います。

ほっとけと言った蔵原に「敵味方関係なく治療するのが赤十字の人間の精神です」と言い返しました。

1935年秋、18ヶ月の任期を終え全員無事に帰国

実現もしない赤十字の精神を生徒に教え戦地に送り出そうとしている婦長に希代は白衣を着ない事を伝えます。

 

大事なものをすべて奪う

満州の開拓団に嫁ぐ決意をして翌年向かい、中川亘のもとに嫁いだ希代は2年後に長男、博人を出産し、5年後には、千振開拓団村は開拓団の数も増え中国人を差別する事なく共に協力する平和な日々になっていきました。

兵士を受け入れるために千振診療所が新設され、そこには大竹英世と看護婦養成所で後輩だった馬渕ハルがいました。

大竹は10年前、匿って治療した匪賊が日本兵を殺してしまい、上官が匪賊にむけ発泡した流れ弾が足にあたり負傷してから理想を捨てていました。

かつては希代と志は同じだったのです。

博人は足を怪我した時に必死で治療してくれた大竹を見て医者になると言いました。

希代は自分が看護婦を志した時を思い出し博人を亘に任せ白衣を着る覚悟を決めます。

「何があっても、どんな事が起きても強く生きるのよ」

自分が祖父に言われた言葉を博人に伝え互いにトラの刺繍が入ったお守りを首からぶら下げます。

 

1945年6月からの2ヶ月間で、沖縄は奪われ広島、長崎には原爆が投下されました。

満州ではソ連が侵攻してきたため希代がいる佳木斯陸軍病院には戦闘での負傷兵が大量に運び込まれてきました。

その中には両足が切断され長い間放って置かれ助かる見込みがない兵もいたが希代は受け入れます。

しかし担架で運んでいる途中、かすかな声で希代と呼ぶ声が聞こえ顔をみるとそれは亘でした。

戦況の悪化により日本兵が不足し亘が出征していた事を希代は知らなかったのです。 

「博人は兄が見てる、心配ない、希代と出会えて幸せだった」

「大丈夫よ、私がいる、私がすべてしてあげるから何も心配ない、大丈夫よ」

必死で伝える希代だったが亘はそのまま死んでしまいました。

 

息子と離ればなれに

亘の遺骨を手に千振に帰ったが千振開拓団村はソ連軍に襲撃され絶滅状態でした。

博人が哈爾浜ハルビンの開拓村へ行く列車に乗る事が分かり急いで向かうと自分を呼ぶ博人の声が聞こえます。

希代は列車に乗れなかったが窓越しにいる博人に必ず後で行くからハルビンで待っているよう伝えます。

しかし博人たちを乗せた列車が出発した後、ソ連の進軍を遅らせる為に関東軍によって線路や駅を爆破されてしまいました。

それは1945年8月10日、終戦をむかえる五日前でした。

佳木斯病院もソ連軍の襲撃にあい逃げ遅れた溝口少佐、救護看護婦たちとハルビンに向かいます。

避難民と合流するがソ連戦闘機からの攻撃があり大竹は希代を身を呈して銃弾から守り死んでしまいます。

 

ハルビン陸軍病院に辿り着くと襲撃を受けた痕だったが、そこにいた婦長から日本が全面降伏した事を知らされます。

溝口少佐は戦勝国からの仕打ちに恐れ女性たちに青酸カリを配り敗戦の責任を取ろうとするが「争いが終わった事は喜ばしい事だ、本当に責任を取りたいのなら我々を無事に日本へ帰還させる事だ」と希代は説得しました。

ハルビンで待っていた博人と従兄の大地だったが希代を心配して千振に向かってしまいます。

その途中、溺れている人を助けるがその人は大地主の楊でこれから日本人は中国人からもロシア人からも狙われるからと匿ってくれる事になりました。

そこは希代がいるハルビン陸軍病院から10キロ離れた場所で中国人、楊希邦として博人は暮らしていました。

 

ハルビン陸軍病院には開拓団村の難民が流れ着くようになり食料を仕入れるため溝口たちは農場に行くが中国人に襲われてしまいます。

逃げる途中に日本語を話す希代と同じお守りをぶら下げる中国人に助けられ父親である楊を紹介してもらい大量の食糧を持って帰る事が出来ました。

博人が生きていると知った希代は会いに行こうとするがロシア軍が侵攻してきます。ハルビン陸軍病院では溝口少佐が地下に女性達全員を隠すが急病人が出た事で見付かってしまい、ハルが連れて行かれるのを止めようとした婦長が撃たれハルが辱めを受けることになってしまいました。

 

中国共産党軍に協力

ロシア兵は何事もなく去っていったがその後、中国共産党軍がやってきます。

報復を恐れた日本兵は自決し看護婦の中にも辱めを受けるぐらいならと溝口から手渡された青酸カリを飲む者もいました。

だが共産党兵は避難民を解放する変わりに希代たち救護看護婦に協力を求めてきました。国民革命軍と共に戦い時期が来たら解放すると約束したので希代たちは受け入れました。

 

共産党軍の同志として中国全土をわたる旅が始まるが、共産党軍は休暇も物資も食料も平等に与えてくれて日本医療技術を尊敬していました。

長い旅を終えハルビン近くの阿城に病院開設のため辿りついた希代は休暇を利用して博人を匿ってくれている大地主、楊を訪ねます。

しかし共産党は労働者と農民の組織という信念で資本家や地主への弾圧を強め地主である楊とその家族は処刑されていました。

 

中国共産党の思想に感化されていくものが増え博人と大地は南下して五家の街に辿りついていたが優しそうな女性に声を掛けられ付いていった場所は過酷な労働をさせられる場所でした。

希代が生きているかも知れないと情報を仕入れ脱走をはかり大地は背中に刃が刺さりながらも博人を逃がしました。

 

博人は共産党軍の病院を訪ねまわり阿城に辿りつくが人民解放軍に入れば食事はあると共産党兵の呂にスカウトされます。

希代と離れる時に渡された虎の刺繍が入ったお守りを目にした呂は「同じものを見に付けていた人が中華人民共和国が建国された日に日本に帰れると祝杯をあげていた」と言いました。

博人は母親に捨てられたのだのだと勘違いして人民解放軍に入ります。

 

結末/レッドクロス 女たちの赤紙

やがて朝鮮半島の主権を巡る争いが始まりアメリカなどの資本主義諸国が韓国に援軍を送り中国は共産主義国家、北朝鮮に援軍を送るがその中に15歳になった博人もいました。

負傷兵の救護をしていた希代たちは日本から帰還要請があり共産党兵は日本人を解放します。

希代は博人を置いて日本には帰れないと強く思うが強制的に日本へ帰らされ佐賀に戻りました。

1953年、初めて満州に渡った日から20年が過ぎていました。

 

5月、希代はふたたび赤紙を受け取り福岡の国連軍病院で米軍や韓国兵の救護にあたっていました。

その中には紛れて中国兵もいたが、「敵味方関係なく命を助けるのが赤十字の博愛精神」と受け入れました。

幼い頃の博人は大竹に治療され足裏に傷跡を残していました。

同じ傷跡がある中国兵を見付けた希代は「楊希邦という名を知りませんか?」と訪ねると「何故、その名前を?」を驚かれます。

 

「私が楊希邦の母親です、博人の母親です」と涙で訴える希代。

しかし自分を捨てたと思って恨んでいた博人は、

「博人なんていう名前は知らない、俺の名前は楊希邦だ」と怒鳴ります。

 

博人は今までのすべてが書かれた希代の手紙を読み希代が帰国したのは2ヶ月前だと知りすべて誤解だったと涙します。

中国に強制送還される博人の首には希代が持っていた虎の刺繍が入ったお守りがぶら下がっていました。

 

博人は軍医として働いている事を伝え互いに涙します。

中国に戻った博人は医者になり多くの患者を救い希代は看護婦を続け日本赤十字社の重責に就きました。

1972年、日本と中国の国交が回復、二人は晴れて再会を果たしたのでした。終