へぇ~♪そうなんだ~♪

<ネタバレ・あらすじ>映画やドラマ、小説などのネタバレになります。

「トンイ」 全話の<ネタバレ・あらすじ>を纏めました。最も長く王を務めた21代王・英祖の母である淑嬪崔氏がモデル/キャスト

 

 

~注意~

●これから邦画・洋画・ドラマをご覧になる方は、

内容・結末を知る事になりますのでご注意くださいませ!

 

 

 

 

 

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淑嬪崔氏がモデル

三大悪女の1人である張禧嬪の陰に隠れてしまっているが雑用係の下女から一気に19代王・粛宗の側室まで上り詰めた唯一の女性。

そして最も長く王位に就いた21代王・英祖の母親。

ネタバレ・あらすじは<重要人物・キャスト>紹介のあと

 < 重要人物 >

 

トンイ(ハン・ヒョジュ)

掌音院の奴婢から淑嬪まで上り詰める。

粛宗王の側室、英祖の母。

父親と兄の無実を証明するため宮廷入りし出会った王から寵愛を受ける。

 

粛宗王(チ・ジニ)

第19代国王、西人派と南人派による党派争いが最も激しい時代であり振り回されるがトンイをしっかり守る

 

チャン・オクチョン(イ・ソヨン)

賎民出身、南人派。世子を出産し禧嬪まで上り詰める。

朝鮮三大悪女の1人。トンイと敵対。毒薬により処刑。

 

チャ・チョンス(ペ・スビン)

剣契の頭目。トンイを妹のように守る。義禁府都事。

 

ソ・ヨンギ(チョン・ジニョン)

幼い頃のトンイを逃がす。誤解が解けトンイの側近の1人。捕盗庁の従事官、内禁衛大将。

 

仁顯王妃(パク・ハソン)

西人派。オクチョンの罠に嵌り王妃剥奪されるがトンイが無実を証明し復権。

病死するまでトンイを支える。

 

チャン・ヒジェ(キム・ユソク)

オクチョンの弟。姉を王妃にするため裏で汚れ役に徹する

 

チョンイム(チョン・ユミ)チョン尚宮(キム・ヘソン)ポン尚宮(キム・ソイ)

トンイの側近。観察府

ファン・ジュシク(イ・ヒド)ヨンダル(イ・グァンス)

掌音院の直長と掌音院の音師、トンイの側近

 

「トンイ」がヒットしたため国民から「尊敬される人物・憧れる女性」と人気が爆発しました。

しかし、実は「トンイ」がスタートするまでほとんどの人が無知であり、彼女の資料がほとんど残されていなかったためずっと無名だったのです。

英祖が83歳と長生きし52年と王位に就いていなかったら誰も注目しなかったかもしれない。

ちなみに粛宗は46年と2番目に長い王位期間。この時代にはとても珍しく父親である18代王顕宗は妻が明聖王后ただ1人だったため粛宗は13歳で即位しました。討伐争いが激しかったが王権を安定させるために努力し商業面では大きな功績を残したが側室などの争いにはまったく把握出来ていなかったと言われている。

 

 

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実は淑嬪崔氏が悪女だったという声がありますが私はそうは思いません。

私の持論の前にまずは淑嬪崔氏をお復習いしましょう。

 

えっ、

淑嬪崔氏のお復習いも私の持論もいいから早くトンイの内容教えろって?

そのような方は悲しいですがこちらからどうぞ「トンイのネタバレ」

出来れば人通り読んでから戻ってきてください(笑) 

 

< 淑嬪崔氏 >諡は和敬

1670年に誕生するが両親を早くに亡くし7歳で宮廷入りした。側室になった時に領議政を追贈された事で父親は崔孝元で間違いない。

水汲みなど雑用の下働きムスリ出身だという説もあるが針房の女官だった説もある。というのもムスリ出身が王と顔を合わせるはずがないからです。

両親を亡くし行き場を失っていたところ仁顕王后の父親で戸曹判書の閔維重に保護された説もある。これは崔氏が仁顕王后の内人となり忠誠を誓って支え可愛がられていたからかもしれません。

 

< 粛宗との出会い >

支えていた仁顕王后が廃妃となり貧しい生活をするようになる。

彼女の安否を想い祈りを捧げていたところ、党派争いに悩み宮中を散歩していた粛宗の目にとまったと言われている。

そのあとすぐに、三大悪女と呼ばれる張禧嬪が王妃となった1689年頃、崔氏は粛宗の寵愛を受け承恩尚宮(従五品)、2年後には淑媛(従四品)となった。

長男を出産するもすぐに亡くなってしまい、仁顕王后が復位された年の1694年に次男クムを出産します。

(クムは1699年に延礽君に冊立され1724年に21代国王・英祖となる)

仁顕王后が復位できたのは西人派が復位させようと動いた事もあるが張禧嬪を立てる南人派が権力を強めだしたので偏らないために粛宗は牽制する意味で張禧嬪を降格させたのです。(とは言っても廃妃されたのは南人の策略によるものだが。)

 

崔氏はクムには庶民を第一に想う優しい男になって貰いたいと学問を学ばせ権力を振るうことがないよう厳しく育てました。

クムを出産した年、淑儀(従二品)となり、1695年貴人(従一品)となる。三年後に三男を出産するが三日で亡くなってしまいます。

粛宗が魯山君を復位させ端宗という諡号を贈った翌年の崔氏は1699年淑嬪(正一品)となりました。

1701年に昌慶宮・景春殿で仁顕王后が死去すると、西人派は張禧嬪が巫女を宮殿に招いて呪ったのだと証拠を差し出すと粛宗は張禧嬪に賜薬を命じました。

ここで西人派が権力を得るかに見えたが「老論派」と「少論派」に分裂して対立。

崔氏は王妃になる事はなく、1704年に延礽君(クム)を新たに迎えた王妃に託し本宮の昌徳宮を離れて梨峴宮に居所を移します。(淑嬪房と呼ばれるようになる)。

1711年粛宗の命で延礽君と暮らし地位や名誉に溺れないように厳しく育てるが1718年に病死。

 

<実は悪女ではないかと言われるのは何故か?>

●三大悪女の一人、張禧嬪の朝鮮実録が完成したのが英祖の時代であり母親が対立していた事から悪く書かれたのではないか。

●女に弱い粛宗を誘惑したのではないか。

●王妃の座を狙い張禧嬪が呪って仁顕王后を死に追いやったと罠に嵌めたのではないか。または息子を世子にするため。

 

◆すべては淑嬪崔氏が謎の女性であり資料がほとんど残されていない事から見方を変えて悪女だと言い始めた可能性の方が高いと思う。

 

悪い人ほど強烈に心に残るものであり淑嬪崔氏が悪女だったらはっきりと記録に残っているはずです。

英祖の時代に張禧嬪を悪く書き母親の悪事をすべて消したとも言われているが、そもそもそんな事は王様といえども勝手に出来ないことであり、それこそ書き換えたという記録が残されるものです。それに淑嬪崔氏の資料はほとんどありません。もし張禧嬪を悪く書くのなら母親の事はよく書き換えるはずです。

 

粛宗が散歩する時を見計らって誘惑など不可能な話。王のスケジュール、ましてや夜の行動など把握出来るわけがなくムスリなら王の顔を拝む事すら出来ないでしょう。

やはり張禧嬪の策略により廃妃されてしまった仁顕王后から紹介された可能性が一番高いように思う。張禧嬪を立てる南人派から一掃される事を警戒した西人派も協力したはず。

息子を王にするために張禧嬪を嵌めたという噂もないと思う。現に後の20代王景宗は母親である張禧嬪が賜薬に処されても3歳の時に世子になっており王になっている。

また英祖が粛宗に似ていない事から父親が違うと噂が立ったのは病気がちな景宗に変わり世弟である英祖に代理で政をさせようと老論派が動いたからです。景宗を支える小論派が流した噂に過ぎないと思う。

皆が権力を欲しがり人が変わってしまう時代ではあるが資料が残されていないのは淑嬪崔氏が権力に溺れることはなく普通だったため記憶に残らなかっただけではないだろうか。

張禧嬪が宮廷入り出来たのは南人派の力だけでなく人格者である仁顕王后が手を差し伸べてくれたからなのに感謝するどころか粛宗の寵愛を受けて権力を横暴し廃妃に追いやるなんて話になりませんよ。確かに三大悪女とまで呼ばれるほどではないとは思いますが。

私は淑嬪崔氏は「トンイ」に近い人物像だったのだろうと思います。