中国時代劇/華政
宣祖王と仁穆王后の間に生まれた王女・貞明公主。
光海君が王の座に付くと預言書を気にした光海君の側近たちにより弟の永昌大君は殺され仁穆王后は幽閉される。
死んだとされた貞明は流れ着いた倭国でファイの名で硫黄職人として育ち朝鮮に戻る機会を待っていました。
復讐心を抱く貞明だがやがて重臣たちの陰謀に気付き始める。時代は宣祖~光海君~仁祖~高宗。
キャストは?
宣祖の嫡女。死んだとされるが倭国で硫黄職人として育つ。復讐のため朝鮮に戻るが弟を殺し母親を幽閉したのは光海君ではないと気付き始める。権力は民のために使うものと考える
光海君(チャ・スンウォン)
第15代王。貞明公主の異母兄。側近たちの過ちに気付くが人ではなく王になると決意を固める。他国の顔色を窺うことなく国を守るために密かに火器都監を建設する。
仁祖 綾陽君(キム・ジェウォン)
光海君の甥。莫大な資金力があるカン・ジュソン、そして策士であるキム・ジャジョムの後ろ盾を得て謀反を起こし代16代王となる。判断力や力はなく朝鮮を暗黒の時代にさせてしまう。
ホン・ジュウォン(ソ・ガンジュン)
火器都監の校理。幼い頃に貞明公主と出会っている。倭国に取引に行った際に貞明とは知らず朝鮮へ帰れるように手助けする。後に貞明と婚姻し三人の子を授かる
カン・イヌ(ハン・ジュワン)
ジュウォンとは幼い頃から親友。幼い頃に出会った貞明に恋心を抱く。カン一族の後継者だが父親の悪事に気付く。
カン・ジュソン(チョ・ソンハ)
莫大な資金を持つ。朝鮮を影で操る支配者。力を手に入れる為なら何でもする独裁力。
昭顕世子(ペク・ソンヒョン)
仁祖の長男。間違った政治を正すため密かに貞明と内通している。清の人質になっても捕虜となった朝鮮人を助けるために皇帝と交渉し続けた。朝鮮のために正しい政務を行なっていたが貞明と結託し謀反を起こすと疑われる。
鳳林大君(イ・ミノ)
仁祖の次男。兄と同じように貞明と志を共にする。兄が毒殺され仁祖が病死したあと代17代王(孝宗王)となる。
時代背景・光海君とは?
さて、暴君とされた光海君の時代だが本当にそうなのか?
ネタバレの前にちょっと光海君をお復習いしましょう
1575年6月4日 光海君(クァンヘグン=本名ホン)誕生
14代王・宣祖の二男として誕生。
母親である宣祖の側室・恭嬪金氏(コンビン)は長男の臨海君、三年後に次男の光海君を出産するが2年後に病で亡くなります。
豊臣軍に立ち向かった光海君
1592年~1598年文禄の役(壬辰倭乱)慶長の役(丁酉再乱)
日本・豊臣軍が侵攻してくると宣祖は、長男の臨海君は評判が悪かったために光海君を世子(王位継承者)に任命してさっさと最北の義州まで逃げてしまいます。
攻められる一方の朝鮮だったが明からの援軍、そして全羅道の司令官である李舜臣、光海君の活躍により豊臣秀吉のご逝去により終結するまで耐える事ができました。
戦乱で名をあげ民から慕われる光海君にくらべ長男・臨海君は捕虜となり解放されたあとは羞恥心から生活は乱れる一方となります。
宣祖は光海君を世子に指名したものの1594年に明に報告するが許可を得られませんでした。
朝鮮王朝第15代王
1606年 宣祖に嫡男が誕生
1600年に正妻である懿仁王后が亡くなってしまうが、新たな正妻となった仁穆王后が永昌大君を出産しました。
宣祖は嫡男である永昌大君に王位を継がせたいと思ったが2年後の1608年56歳で世を去ります。
1608年 光海君は15代王となる
永昌大君はまだ2歳だったために光海君が15代王となるが、側近である大北派が臨海君と永昌大君が王位をおどかす存在だと警戒します。
それにより、1609年に兄の臨海君は島流しのあと処刑させられ1614年に8歳の永昌大君も亡き者にされてしまいます。
また仁穆王后は大妃を剥奪されて側室に降格、幽閉され父親は処刑、母親は奴婢とされてしまいます。
宣祖の五男にあたる定遠君の息子・綾昌君が宮中の中で「王にふさわしい」と声が上がるようになり警戒した大北派は謀反の罪を着せ始末した。
定遠君が亡くなり綾昌君の兄である綾陽君ヌンヤングン(後の16代王・仁祖)は光海君に対して強い恨みを抱き後に起こるクーデターへと結びつく。
この時代、派閥がややこしい!!
宣祖は士林派を重んじたが光海君が生まれた1575年に「東人」と「西人」に分裂し激しく対立!
そして1591年には「東人」が政権を確保するが「東人」は「北人」と「南人」に分裂。更に政権を確保した「北人」は「光海君を推す大北」と「永昌大君を推す小北」に分裂!
光海君が王位につくと「大北」は「骨北」「肉北」「中北」に分裂する。
本当にややこしい (-_-;)
光海君は本当に暴君なのか?
10代王・燕山君は明らかな誰もが認める暴君だが光海君は派閥争いに巻き込まれた可能性が高い。
●豊臣軍との戦いにより荒れ果ててしまった国土の復興に力を入れ江戸幕府との貿易を再開させた。
●大同法を取り入れて税負担を軽減し民の生活を助ける
●北方に建国した後金(女真族のヌルハチが建国)を一掃しようと明から援軍要請を受けた時、豊臣軍のしんこうの際に援軍により助けられた恩から明の方が劣っていると知りながら援軍を送り出した。
●援軍は後金に捕まるが明と後金、両方との関係をよくしたいと考え中立な外交政策に取り組んだ
このように光海君は評価される事が多く、側近である大北派の行いにより暴君とされてしまったのではないだろうか。
兄弟たちを始末した事が問題視された可能性も高いが本当に光海君が決断したものなのかは不明。
1623年3月13日 クーデター
綾陽君は「西人派」の有力者の協力を得て政変を起こし第16代・仁祖として即位すると光海君を済州島に流刑としました。
仁祖は大義名分が必要だと重要視し母親を平民に降格させた事を理由に政変を起こし仁穆王后を復権させて正式な形で王位に就くが強い恨みを持つ大王大妃から光海君を始末するよう主張されても受け入れる事はしませんでした。
1641年8月7日66歳で光海君は亡くなります
国王在位は1608年から1623年。
全65話ネタバレあらすじ/華政ファジョン
17世紀初頭1608年、
世子である光海君は昌徳宮(朝鮮第3代王の太宗テジョンが創建した離宮)の改築に専念していました。
明は嫡子ではない理由で16年間世子とは認めず、朝鮮第14代王の宣祖からはする事すべてが王座を狙っているように思われいました。
王様は仁穆王后との間に生まれたまだ幼い永昌大君を世子に擁立しようと目論み宴には西人派(光海君の反対勢力)と南人派(超党派勢力)の高官を招き大北派(光海君の支持勢力)は呼ばなかった。
倭国に攻められた宣祖は光海君を世子に立て民を見捨てて逃げました。
その時に命をかけて民を守ったのは光海君であり大北派の重臣や臨海君(光海の兄)は永昌を殺め王印を奪って王座につくべきだと怒りをあらわにしました。
永昌の姉・貞明公主のことを優しく兄として接し、王様に心を尽くしている光海君は血を見ることは止めるよう言いました。
しかし宣祖にとって民から慕われている光海君はただの政敵であり理解されることはありませんでした。
イ・イチョム(大北派の領袖)と結託するキム・ゲシ(王様付きの尚宮)は王様の食事に毒を入れます。
一方、臨海君は永昌に刺客を送り暗殺を試みるが王様が亡くなる報せの鐘がなり失敗に終わります。
それにより仁穆王后は永昌と貞明を守るために世子廃位の命令書を書き西人派の重臣たちはどうせ殺されるならと結束します。
何も知らなかった光海君は永昌を狙った刺客を捕らえ仁穆王后に会いに行きます。
対立すれば王宮に血が流れてしまう。永昌と貞明を守りたいのは自分も同じだと話すと仁穆王后は王位を世子に継承することに決めました。
宣祖が亡くなった翌日、光海君は第15代王の座に就きます。
光海君(王様)は貧しさにあえぐ民を助けるため両班(特権的か支配層)の反発を恐れず大同法(貢納を地税化した制度)を施行します。
悲願達成のために同じ志を持つイ・ドッキョン(領中枢府事=中枢府最高責任者)を領議政(議政府の最上級文官職)に任命しました。
臨海君が謀反を起こし捕らえられ、王様は濡れ衣を着せられた兄の言葉を信用するが事実である証拠を重臣達から突き付けられ死罪にするしかありませんでした。
ヌルハチ(後金の建国者)が脅威となっており戦乱を避けるため交河へ都を移そうとするが重臣たちに反対され王座に就いて5年ますます孤独になっていった。
上記の続きからの「一覧」になります。